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読書日々 1634 追悼・曾野綾子さん  

3月
◆250307 読書日々 1634 追悼・曾野綾子さん
 *1931(昭6)~2025(令7)0228
 曾野さんは「豪傑」(美丈夫)だった。そして、特種な「勘」の持ち主だった。ただし、わたしにとって残念だったのは、「酒宴」を好まれなかったことだ。酔っ払いに険もほろほろだった。
 曾野さんの「自己規定」は、一にも二にも「小説家」で、私が一押しの最高傑作『天上の青』(1990)は「純愛」物語で、しかも身も心も凍る犯罪(推理)小説である。付け加えれば、書題が傑出している。聖女と殺人鬼の「愛」をテーマにしている。……
 というようなことを新聞の「コラム」(?)に、書いたら、「よろしかったら、ボランティアで金沢に「竹切り」に来ませんか?」というお誘いがあった。一も二もなく、そこにこわごわ出向いたが、その日時が不明のまま……。
 翌年、ミヤンマーのハンセン氏病の実態「調査」に来ませんか? 費用等は日本財団が出すが、「酒代」程度は必要になります、というものだった。この調査(?)はミヤンマーの北部山岳地帯、カチン州まで回った。……筆舌に尽くせない貴重だが二度と経験したくない、数々の奇体験をした。
 ところが翌年、二度と経験したくないこの旅行のあと、私の口の悪さが曾野さんの口の悪さと相まって、というか、相乗効果を醸して、以降、毎年のように「曾野綾子が案内します目の不自由な方とゆく聖地巡礼の旅」に参加を「半強制」された。
 ただし、曾野さんと夫君三浦朱門先生との旅は、イスラエルやバチカンをはじめ、ルルド等の聖地巡礼、それにベネテアィア、アテネ、ギリシア各地旅は、私の未知数「世界体験」の「核」となった。それに、1ダースを超える終生の「友人」を与えてくれた。後に、USAに、大学教育の現地調査にのぞんでも、至極スムースにいった。曾野恩である。アーメン。

読書日々 1186 頭を殴られた思想家 柄谷と吉本

◆250227 読書日々 1186 頭を殴られた思想家 柄谷と吉本
 1 「お前はどんな本を読んで刺激を受けたか?」と問われたら、ひとまずは、こう答える。
 「理論上」で言えば、第一に、同世代の柄谷行人(1941~)『マルクスその可能性の中心』(講談社 1978)に、先人では吉本隆明(1924~2012)『共同幻想論』(河出書房新社 1968)に、と。吉本は「関係の絶対性」と「共同幻想論」を、柄谷は哲学=「読解法」を明示した。
 2 哲学=読解法は、アルチュセール(学派)が、関係の絶対性はソシュール(学派)が先駆をなすが、静岡短大の高橋洋児は、アルチュセール『資本論を読む』(合同出版 1974)を、せめて英訳で読むくらいはしないと、と脅し(?)をかけてきたので、読んだが、特に齟齬はなかった(ように憶えている)。
 3 ソシュールの紹介と言語論的哲学観の展開は、丸山圭三郎(1933-93)という人を得て、私にも多大な影響を与えたが、残念ながら、丸山の夭折によって、成山の旺盛な活動が「中絶」を余儀なくされた。(その影響ではなかろうが、吉本『言語にとって美とは何か』が「未完」(?)に終わったのも、惜しまれる。)
 アルチュセール(学派)に関して言えば、アルチュセールの「犯罪」を契機に、その影響は尻切れトンボの形になったが、今村仁司(1942~2007)『歴史と認識―アルチュセールを読む』(新評論 1975)以下の労作が、今村の夭折で、市場から消えていったことも惜しまれる。この人と、飛び入りの形で広松渉研究会(?)出席させられたおり、一度会ったときの印象、忘れがたい。分厚い眼鏡をかけた、好男子だった。およそチャラオ風の柄谷とは異なった。
 4 吉本隆明の著作集 ①『吉本隆明全著作集』全15巻 勁草書房、1968~1975 ②『吉本隆明全著作集 続』勁草書房 1978 3巻のみ)③『吉本隆明全集撰』大和書房、1986~1988) 第1~第7巻が刊行(第2巻は未刊行)④『吉本隆明全対談集』全12巻 青土社、1987~1989)は、何を書くにも、繙読せざるを得なかった。⑤私にとっては、吉本と鮎川信夫の対談集(鮎川信夫著作集 全10巻)が、吉本理解(批判を含む)になった。

読書日々 1185 「運転席からの風景」 

◆250221 読書日々 1185 「運転席からの風景」
 今日も淡々した雪が降る
 1 住いのとなりは、小さな「信濃郵便局」だ。部屋から歩いて、2分とかからない。私の住む厚別(現札幌市厚別区)に最初に鍬を入れたのは、信州信濃=諏訪の水稲集団で、近くにその子孫の家のいくつかが残っている。神社や校にも、「信濃」がついているわけだ。
 まだぼんやりとした頭が続くが、加藤尚武先生の封書(エッセイ連作「羅針盤」)へのお礼の葉書を出しに行った。失礼ながらずいぶん遅れたことになる。加藤先生は、広松渉先生の義弟(奥さんが姉妹)で、両人ともに、左翼で、最後は東大に戻って教授となられたが、長い間「就職」(研究職)では苦労した、と思える。
 加藤先生には、ヘーゲル研究というか、わけても哲学史研究で、ずいぶん(著書で)世話になった。広松さんは、一見して「難解」で、加藤さんは、逆に「明晰」そのものであった。反面、加藤さんは、あまりにも「技巧派」で、広松さんは「愚直」に思えた。どちらも戦後日本の哲学研究の至宝だ。
 2 孫が4人いる。男は1人で、他は3人とも女だ。少ないが、仕方ない。
 私は4人姉妹の真ん中で、特別大事にされたというわけでもなかったが、我意を通し続けて、家業を継がず、姉・妹たちにはいらぬ迷惑をかけてきた。特に長姉は、後に、後継者のいない「店」(鷲田商店)を継ぐ意志があったのに、といわれ、愕然とした。
 その姉、高校卒後、望んで就職した会社を無理矢理(祖父に)辞めさせられ、店の「手伝い」をさせられたという経緯があった。(母は店の仕事を嫌った。)だが、格好の嫁ぎ先があるというので、家を出た。その嫁ぎ先、呉服店が、火災に遭い、またバブルの崩壊も重なって、倒産した。
 姉はわたしより3歳しか上ではないが、「ボケ」が進んで、施設に入った。ま、遠からず私もボケがすすんで、同じコースをたどるに違いない。
 3 昨日は、「運転席からの風景」で、「JR鶴見線」を、一昨日は「京阪大津線」を堪能した。前者は、2度目で、後者は、3度。西武秩父線は、何度見ただろう。勿論、2度、実乗している。上京すると、どこに乗るか、をまず決めた。

読書日々 1184 山科・大津・大和 

◆250214 読書日々 1184 山科・大津・大和
 ときに雪が降るが、おだやかな日が続いている。あまりパッとした心ばえではなくとも、ま、こんなところだろう。横では、樫本大進中心のヴァイオリン交響楽団によってヴィバルディの「四季」が奏でられている。いい!!。
 1 年末から正月にかけて、長女の家族が「帰省」(?)してきた。恒例である。孫娘2人が、急に大人びた。そういえば、上の方は、今年中学だ。
 その娘が、先日、公立中学受験に受かった、と便りが来た。前触れもなかったので、少子化の効用かな、と思えたが、まずはおめでたい。
 私は、子供(3人)の受験には、全くの無関心を装ってきた。どこで学んだか、人生全般にわたって重要だとは思うが、決定的ではない。そう思うことにしてきた。好き嫌いもある。
 私のように「哲学」を選んだものと、息子のように「PC技術」を選んだものは、深いところでたとえ一致することがあったとしても、ビへービアは両極に別れて当然である。私は、初心者として息子の技術「供与」の享受にあずかるだけだ。これとて「幸運」に違いない。いまでも、とつおいつ書くことができるのはPCのおかげだから。
 2 「山科」(山階)は、京都府に属するが、近江(大津)と大和へと回廊が延びる、要所であった。
 久しぶりというか、はじめてのような感慨を持って、京阪大津線で、地下鉄・御陵→……山科→追分……→三井寺……坂本比叡山口(→ロープウェイ)→比叡山→延暦寺根本中堂まで。夢のような「旅行」を味わった。(以前も、同じ番組を見た?)
 中大兄王(天智天皇)(+中臣鎌足=藤原鎌足)が、大津に都を開いて、初代天皇となった。その大津ー山科ー山城は、(いまは山中?だが)要路で結ばれていた。鎌足の息子で、20代の末までまったく無名だった、史(→不比等)が権力の頂点に登る階梯で、山科が重要な拠点になった、という点をとにもかくにも、「立証」しようとしたが、「おぼろげ」(一つの確信)で終わった。拙著『藤藁不比等と源氏物語』(言視舎 2024)でだ。でも知的楽しみを満喫した。京阪大津線の「旅」(架空)もそれにつながる。

読書日々 1183 吉村昭と緒形拳

◆250207 読書日々 1183 吉村昭と緒形拳
 新宿、八重洲等々の小さな酒場でよくよく飲んだ。ゴールデン街はまだ健在(?)らしいが、八重洲の軒を並べた低層・極小の飲酒街はもはやない。特に「だぼ鯊」の天ぷらは、美味かった。私と同じ歳の店主・高橋さんは、郷里(八街)に戻ったが、健在かしら。
 ゴールデン街に足を入れた当初、私の職業は建築現場監督やひょっとして警官かと思われた。

 同じように、静かな大酒飲みに、吉村昭(1927~2006)がいた。わたしより一回り年上の作家だが、酒場では警官あるいは組のものとよく間違えられたらしい。つまりは「人相・風体」がよろしくないというか、「知的」でないのだ。その吉村さんの本を長編から短編、エッセイに至るまで、よくよく読んだ。今もときに開く。時代・伝記小説をたくさん書いていることにもよるが、取材(とりわけ図書館)によって小説を書くスタイルに魅せらるからだ。
 私はと言えば、図書館も図書館員も、ま、私的な知的経験の範囲内だけに限ってだが、知的な人・場所とは到底思えなかった。もちろん、札幌大学の長谷部宗吉さんのような人は例外としてあったが。
 吉村さん、その小・青年期、敗戦で家業は傾き、自身は肺結核で死線をさまよった。作家の道に入っても、長く光が当たらなかった。『戦艦武蔵』(1966)で脚光を浴びたが、特異分野の特殊な書き手とみなされてきた。ドキュメント作家というふうにだ。しかし短編集『帽子』を手に取れば、何の「変哲」もない人々のふれあいを見事に描いている。
 私は、長い間、緒形拳の最後の登場作品「帽子」の原作は、シナリオ池端俊作とのみあったが、吉村作品に違いないと思ってきた。あまりにも、緒方の演技と、その後の人生のピリオッドの打ち方が、吉村風に思えたからだ。
 これは、緒形拳の作品と吉村昭の作品の中に、共通するものを求めていた、私自身の「錯覚」が生み出したものに違いない。